みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

プミポン国王がいなくなったタイ

 タイのプミポン国王が亡くなった。そのニュースを知ったのはボブ・ディランノーベル文学賞を受賞したのを知ったのと、ほぼ同じタイミングだったけど、僕にとっては、プミポン国王の死去の方が、より衝撃だった。

 プミポン国王は1946年6月に18歳で即位し、それから70年間、タイの象徴でありつづけた。タイの王室を快く思わないタイ人は実は少なくないのだけれど、プミポン国王を悪くいう人間はほとんどいない。それだけ人格者だったのだろう。オックスフォード大学を卒業したインテリア然として風貌、その物腰の柔らかさなど、まさにジェントルマンを地でいく風情があった。多くのクーデター未遂もプミポン国王が登場すると、予定調和のようにすら感じるようにあっさりと終わったりし、国民全体がプミポン国王に敬意を示しているのは、ほんと、肌で感じられた。タイの映画館で映画を見ると、ロードショーの前に観客全員が直立してプミポン国王と共に歩んできたタイの歩みを放映し、感謝の気持ちをみんなで祈るのだけど、嫌々祈る人は個人的な体験では、皆無だったような気がする。本当に、タイ国民に愛されている人だったんだ。

 そのプミポン国王が亡くなられて、一体これからタイはどうなるだろうか。象徴であり、経済面などでの影響は実際はないはずなんだけど、人々に及ぼすメンタル面での影響は、僕たち日本人に計り知れないのかもしれない。余り日本には伝わっていないかもしれないが、今のタイは確実に2つに分断されている。バンコクとそれ以外のエリアの圧倒的な格差だ。バンコクの一人当りのGDPは1万ドルをはるかに超えており、中堅企業以上で働いている人を限定にすれば、2万ドルに迫るという。これは日本の地方の若者の給料より高いぐらいだし、現地の一般消費財の物価を考慮すると、さらに彼らは豊かなんだろう。対して、タイ地方の疲弊は日本以上に深刻だ。東京一極集中という言葉が生易しく聞こえるくらい、タイの若者はバンコクに吸い込まれる。地方の若者はバンコクで搾取されるのだが、それより深刻なのは、残された地方の産業のなさと鬱憤とした気持ちで、タイでも地方に残る者は、日本以上に鬱憤とした憤慨を抱えている。バンコクとそれという事象は、すぐにでも導火線に火がつくくらいだと、僕は少なくとも思っている。(これはアジア全域で、首都とそれ以外という問題で重くのしかかっているのだが。ただバンコクの発展が激しい分、タイはより深刻な気がしている)

 そんな今のタイでも、バンコクでも地方でも変わらない数少ない共通の気持ちがあった。それがプミポン国王への敬愛だった。でもそれは、遂になくなった。タイの国民はプミポン国王に敬愛をいだいているのであって、王室にはさほど敬愛を抱いていない。次の国王となる皇太子などは女性問題を数多く引き起こしており、ぼんくら皇子として、世間から小馬鹿にされている人物なので、彼が国王についたとして、そこには敬愛の心がやどることはないのだろうし、反感のまととなるかもしれない。

 戦争の時代とその後の復興と共に歩んだ昭和天皇は、例え人間宣言をしたとしても、同時代を生きた多くの人間にとって敬愛の象徴であり続けたように、プミポン国王も今の20代?少なくと30代以上のタイ人にとって、時代の象徴で、敬愛の対象だった。その象徴がなくなった今、タイはとてつもない悲しみに包まれている。その悲しみが明ける頃に、次ぎにどんな道を歩みだすのだろう。それが分かり合えない国内格差の中での暴力の道にならないことだけを祈っている。それは部外者のセンチメンタルに過ぎないのだろうと分かってはいるのだけど。

 

 

 

心の癖

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 心の癖が分かれば生きやすくなるんだろうか。そんなことを最近考えている。

 自転車に初めて乗れた時のように、何かコツをつかめさえすれば、人生は生きやすくなるのだろうか。簡単そうに思えて難しく、難しそうに思えて簡単かも知れない。そんなメビウスの輪みたいな思考が巡っている。

 「幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じることをできる心を手に入れるだ」。甲本ヒロトが、昔そんなようなことを言っていた。確かにその通りなんだろうか。自分の心の癖を理解できたら、何気ない日常に幸せを感じることができるのだろうか。難しいね。

 土日月と3連休なのだけど、体がなんかけだるい。心がけだるいというのだろうか。最近の休日は、昼下がりに近所の古びた喫茶店に行って、ジャムトーストと瓶ビール(サッポロ)を飲むのが、なんか定番になってきた。ジャムとビールなんて昔は愛称最悪だったと思ってたんだけど、年をとるに連れて、甘いものが好きになるんかね。

 ジャムトーストをビールで押し込みながら、毎日新聞を読む。なんじゃこりゃという内容のなさ。おっさんの感想文の集まり。最近の一般紙の内容の薄さはすごいなと再認識した。もう新聞という業態は賞味期限がとっくに過ぎているんだろうな。(主な読者の)団塊の世代がいなくなるあと20年後には、新聞はどうなってしまっているんだろう。そんなしなくてもいい心配をしてみる。さぁ、今日もなんとなく生きてみる。

 

 

ネットが発見を確認に変えてしまった

 何をしていても、なんだかやりつくされ感が半端ではない。そんな気持ちが最近心を覆うっている。その理由は一言で言うと、無制限なIT化なんだろうね。インターネットの普及で、誰もがインターネットを通して簡単に集合知にアクセスすることができるようになり、それが常に身近に保有するスマホの出現でさらに加速された。

 ネット黎明期は、それは本当に世界が変わるような出来事で、プラスの要素以外の何物でもなくなったのだけど、WINDOWS95の発売から20年を経た今になって、ネットというものの足枷を数多く感じることも多くなってきた。

 ネットは確かに便利だ。全く知らない知識でも、少しの間電脳空間をうろうろして情報を集めるだけで、いつの間にかそれがあたりまえの知識のように振舞うことができてしまう。確かに便利だけど、それはとても寂しいことで、悲しいことなんだと最近感じだした。

 その理由を考えてみると、ネットは日常生活から「発見」という感動を奪ってしまったのだということに、はたと気づいた。昔といってもたかだか15~20年前は、何を行うにせよ、その事に関しての知識を得る術は、限られていた。例えば海外旅行一つを例にとっても、初めて行く国の情報を集めるのは、ガイドブック、一部の雑誌くらいしかなく、そこの書かれている情報は、自分が知りたい情報をかけ離れていることも少なくなかった。

 それがネットの発展で、大きく変わった。自分の知りたい情報はキーワード検索ひとつですぐに知れるようになり、それも現地からの生の情報なので、タイムラグはほとんどなくなった。それ自体はすごいことなんだけど、そこには明らかに「発見」がなくなった。

 知らない街を歩いて何気なく発見した感動が、事前に情報を調べてから現地に向かうことでほとんどなくなり、変わりにその事前情報を「確認」するものへと姿を変えた。かつての「発見」がベースだった旅行を知る人たちには、それは痛々しいほど物足りないのだけど、それまでの旅行を知らない物には、それは便利以外の何者でもなくないのだろう。

 このようなことは、他の日常生活のいろいろな部分にも当てはまる。かつては街角を足を棒のようにして自分の足で歩いてお気に入りの店を探していた食べ歩きも、クチコミサイトの登場で、すごく色褪せた風景に変わった。クチコミ評価の高い店のクーポンと地図を印刷して、その店に向かい、「クチコミの通り、まーまー美味しかったね」と感想を言い合う。そこには「確認」の二文字しか存在せず、「発見」はなく、とても寂しい。

 そんなこと気にせず、お前だけネットを使わずに、勝手に「発見」にこだわれよと、誰かは言うかもしれない。でもネットという便利なものの汚染させた僕は、「発見」時代への懐かしさを感じつつも、安易に「確認」的な日々を暮らしてしまう。なんだかとても寂しいのだけど、もう元には戻れない。そんなもどかしさを抱え日々に疑問をかかえつつも、でも「発見」の面倒くささに囲まれた時代には戻れない。こんな気持ちと振り返りを、ノスタルジーと昔から皆言ったのだろうか。そんなことを、ふと思ったりしている。

東南アジアで影響のなくなる日本

 

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 今、ラオスのワンビエンにいる。ビエンチャンからバスで4時間弱で着くメナム川沿いの山間の村なのだが、海がないラオスのプチリゾート地として、外国人観光客に人気の場所だ。村の中心部を少し離れるとのどかな田園風景が広がっていて、牛や鶏が道路をゆっくりと横切る。レンタルバイクを借りて何気に走っているだけで、心地いい。

 しかしこの場所、韓国人の比率が異常に高いのだ。街中いたるところにハングルの看板で溢れており、道行く東洋人風のほとんどが韓国人のような気さえしてくる。同じ整形顔の韓国女と、なんかやたらムキムキの韓国男が溢れていて、居心地はあまりよろしくない。ラオスというと経済面では圧倒的に中国資本に侵食されていて、ビエンチャンの街中で建設中の大型ビルはほとんど、中国資本なのだけど、観光面では韓国の方が存在感があり、特にワンビエンでは観光客の半分近くが韓国人の印象だ。観光慣れした物売りの子供からは、数回「アンニョ・ハセヨー」と言われたよ。昔は必ず「ありがと」だったのにな。ちなみにワンビエンには3日弱しかいなかっただけど、その間日本人とは一人も合わなかったよ。韓国人は100人以上見たけどね;;

 まぁ何が言いたいかというと、まぁ日本の東南アジアでの影響力が目に見えて減っているということ。特に後発国のラオスカンボジアベトナムでは。最近は年に1~2回しか東南アジアに行くことはないのだけど、毎年の変遷を定点観測していると、ここ数年の日本の影響沈下はすざまじい。政府は「クールジャパン」のごりおしをしているが、それはほとんど波及していなくて、バンコク、マレーシアなどのいわゆるアジアの先発発展国ではある程度日本文化の浸透は大きいが、ラオスカンボジアベトナムなどの後発国では圧倒的に日本の影響は弱い。2年くらい前に現地の若者に、「嵐は韓国アイドル」だと言われたことも、ふと思い出したよ。ちなみにワンビエンの街角にはハングルで客寄せしているドラえもんの看板があるミニマート(現地のコンビニ)があったよ笑。つまり何が言いたいかというと、ワンビエンは日本の影響力の減少を肌でものすごく感じやすい場所ということなのかな。

 日本企業も海外進出は盛んに見えるが、韓国や中国企業の強引で、いきあたりばったりの手法には、最近は太刀打ちできていない。韓国はアジア通貨危機で破産した90年代後半以降、中国は現地の人件費が急上昇に転じた2000年代半ばから、驚くほどの東南アジアに侵食していったのをなんとなく思い出す。特に後発のラオスカンボジアベトナムでその動きは凄まじかった。ラオスを見ても、2000年代前半は外資企業進出はかなり少なかったが、一気に後半から加速した。今のビエンチャン市内で建設されている大型ビルの多くも需要があるからではなくとりあえずの建設ありきで、いずれ中国国内のゴーストタウンみたいにになるんじゃないかと心配になるよ。

 で、だらだら書いているが。今の状況を見ていて、仕方のないことなのかもしれないと思ってきた。欧米、あるいは日本企業が先行して耕してきた土壌に、後発で入るんだから、その中で勝つためには、ある程度むちゃくちゃする必要があるということか。さらにその中でも弱い地盤には、一気に攻勢をかけると。そして、日本企業にはそこまでのバイタリティが今はないということか。書いてて少し納得した。さぁて、どうしたもんだろうね。まぁなるようになるしかないんだけど。少し寂しかったんで、メモしておく気分で書いてみた。10年後、この文書を読むことがあったら、その時の自分はどう思うかなと思ってね。(写真=ワンビエンの村の中心からバイクで10分も走るとこんな風景が目に入ってくる。のどかなんよなぁ)