みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

ネットが発見を確認に変えてしまった

 何をしていても、なんだかやりつくされ感が半端ではない。そんな気持ちが最近心を覆うっている。その理由は一言で言うと、無制限なIT化なんだろうね。インターネットの普及で、誰もがインターネットを通して簡単に集合知にアクセスすることができるようになり、それが常に身近に保有するスマホの出現でさらに加速された。

 ネット黎明期は、それは本当に世界が変わるような出来事で、プラスの要素以外の何物でもなくなったのだけど、WINDOWS95の発売から20年を経た今になって、ネットというものの足枷を数多く感じることも多くなってきた。

 ネットは確かに便利だ。全く知らない知識でも、少しの間電脳空間をうろうろして情報を集めるだけで、いつの間にかそれがあたりまえの知識のように振舞うことができてしまう。確かに便利だけど、それはとても寂しいことで、悲しいことなんだと最近感じだした。

 その理由を考えてみると、ネットは日常生活から「発見」という感動を奪ってしまったのだということに、はたと気づいた。昔といってもたかだか15~20年前は、何を行うにせよ、その事に関しての知識を得る術は、限られていた。例えば海外旅行一つを例にとっても、初めて行く国の情報を集めるのは、ガイドブック、一部の雑誌くらいしかなく、そこの書かれている情報は、自分が知りたい情報をかけ離れていることも少なくなかった。

 それがネットの発展で、大きく変わった。自分の知りたい情報はキーワード検索ひとつですぐに知れるようになり、それも現地からの生の情報なので、タイムラグはほとんどなくなった。それ自体はすごいことなんだけど、そこには明らかに「発見」がなくなった。

 知らない街を歩いて何気なく発見した感動が、事前に情報を調べてから現地に向かうことでほとんどなくなり、変わりにその事前情報を「確認」するものへと姿を変えた。かつての「発見」がベースだった旅行を知る人たちには、それは痛々しいほど物足りないのだけど、それまでの旅行を知らない物には、それは便利以外の何者でもなくないのだろう。

 このようなことは、他の日常生活のいろいろな部分にも当てはまる。かつては街角を足を棒のようにして自分の足で歩いてお気に入りの店を探していた食べ歩きも、クチコミサイトの登場で、すごく色褪せた風景に変わった。クチコミ評価の高い店のクーポンと地図を印刷して、その店に向かい、「クチコミの通り、まーまー美味しかったね」と感想を言い合う。そこには「確認」の二文字しか存在せず、「発見」はなく、とても寂しい。

 そんなこと気にせず、お前だけネットを使わずに、勝手に「発見」にこだわれよと、誰かは言うかもしれない。でもネットという便利なものの汚染させた僕は、「発見」時代への懐かしさを感じつつも、安易に「確認」的な日々を暮らしてしまう。なんだかとても寂しいのだけど、もう元には戻れない。そんなもどかしさを抱え日々に疑問をかかえつつも、でも「発見」の面倒くささに囲まれた時代には戻れない。こんな気持ちと振り返りを、ノスタルジーと昔から皆言ったのだろうか。そんなことを、ふと思ったりしている。