みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

そういえば、東京に来て、10年が過ぎていた。

 ふと気づいたのだけど、東京に来て、10年が過ぎていた。

 もう10年なのかという思いと、まだ10年かという思いが交差していて、不思議な感覚がある。東京に来る前には、大阪市内で働いていたのだが、会社が突然倒産して、さてどうすべーってテンションだった時に、知り合いから、今の会社の東京支社の社員の募集があるとの誘いを受けて、なんとなく面接を受け、なんとなく東京で働くことを決めた。東京に来たのは2011年の東日本大震災の直後の5月だった。震災から2カ月が過ぎていたので、もう東京での震災の影響はほとんどなくなっており、スーパーの照明が節電で少し暗いかなという印象くらいしか、直接の影響はなかった。

 少し振り返ると、人生にはこれまで真面目に向き合ってこなかった。いい意味でも悪い意味でも、流されて生きてきた。多分これからの真面目に向き合っていかないだろう。大学に7年間在籍して、25歳を超えて卒業した。関西では上位の私立大学だったが、京大受験に失敗したコンプレックス(京大は仮面浪人も含めて4回受験、東大も1回受験した)で、特に楽しくなかった。文化人類学者を目指していた時期もあったのだが、タイ北部の少数民族のフィールドワークをしようと思っていた時期にテレビ文化のせいで民族性が圧倒的に希薄になり、挫折した。その後大学を休学してタイ、カンボジアにしばらく滞在して、世界一周もどきをして(南米とアフリカの南は行ってないので50か国くらいしか訪問していない)、1990年代も終わりにカジノにハマって1回目の人生の破綻をした。(当時やっていたスモールビジネス破綻もあるが)。特に1999年に、カンボジアのカジノにハマってて、その時はプノンペンシアヌークビル、ココン、ポイペット、バベットなどを主戦場にしていたが、まだ世界的なポーカー(ホールデム)流行前の時代だったので、バカラとポーカーが中心だった。当時のロリコン天国のプノンペンは、クーロン黒沢や鈴木傾斜あたりが誇張しているが、そんなに悲壮感のある国でなく、日本の戦後の焼野原的な牧歌さもあった。(まぁ俺はカジノ入りびたりだったので、深い裏の話はしらんが)その話はいずれ暇になったら書こうかなと思う。

 やばい思い出振り返りになってしまったが、今回のブログで書き留めたいのは、そういうことではない。東京に出てきてからは、ずっと小岩に住んでいる。この街の東南アジアの片隅の多国籍シティ感は、なんか安心するし、肌にあう。ビジネスのにおいのする新大久保なんかより、日本で自分たちのコミュニティーを築いたいろんな国の人種がけっこう楽しくやっている。俺も暇なんで、日本語教師のボランティアをしている関係もあって、けっこういろんな国のおっさんたちとコロナ前は仲良くやっていた。新小岩の片隅の居酒屋で、イラン人と韓国人、ロシア人とベトナム人とで、焼き鳥をほおばり、志村けんの魅力について語り合う。今思うとけっこう幸せな空間だったな。コロナが終わって復活してほしい。小岩では10年住んで3回引っ越しした、違う街の引っ越しも考えたが、小岩の魅力にはあがらえないでいる笑。

 東京で10年暮らして、何を得て、何を失ったのかを考えている。一つは若さだが、それは仕方ない。東京に来たときは30代前半だったが、もう40代に入ってからだいぶ時間が過ぎた。ただ大阪時代より給料は増えたので、飲み屋めぐりの頻度が増えて充実度は増した。だが年齢を重ねるごとに結婚する友達も増え、独身主義者(モテないだけ…)の俺は必然的にぼっちのみが増え、最近のコロナでそれもままならない。

 さて、これからどう生きていこうか。そんなことを今はだらだら考えている。いろいろ変化はあるだろが、個人的な少し太ったことを除くと(大学生時代は40キロ代のガリガリだった)、あまり体力の衰えも感じないので、徒歩で日本一周だとか、自転車での世界一周なんかも今のうちにやってみたいのだが。昔に比べてそういう冒険のハードルもだいぶ下がっててて、時間さえあれば、出来ると思ってるのだが。ただ足元、お金が厳しい。この2年のコロナ禍相場で数千万円負けてしまったので、さすがに早期リタイヤしてもお金が足りなくなるのが目に見えている。まぁ自業自得だから仕方ない。何かだらだら書いてるが、思考がまとまらないな。今年は残り、これから何をするかじっくり考える時間にするかな。とりあえず東京10年を迎えた今の答えは、しばらく先送りするというありきたりの答えです;;