みとのひとりごと

30歳を過ぎてから上京したアラフォーの関西人。独身。人生いまだ考え中。昭和の残香がするすみっこが好き。

ハノイ、ラオカイ、サパ、河口。

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 何かタブレットのキーボードの調子が悪くて、スマホで更新。久々に移動の多い旅らしい旅をしているが、なかなかにしんどい。原因は確実に移動中の暑さなんだが、しかし昔はなんでもなかった暑さがこたえるのはやっぱり歳のせいかもあるのかな笑。
ハノイに着いたのは8月7日。ハノイはそこそこの定番観光だけだったけど、ハノイからバスで5時間かかった国境のラオカイでレンタルバイクを乗り回したのは少々応えたのかも。サパまでの棚田を眺める山道は風情があるのだけど、大型バスが幅寄せしまくりで、なかなかにはバイクに応えた。サパはなんか観光地化し過ぎて、いまいちだったかもしれない。ラオカイのザ地方都市の感じの方が悪くないかも。
 そして今朝にラオカイと河口の国境を超えて、今日は河口でまったりの予定が、今日も暑さでダウン。やはり東京も暑いが、東南アジアの暑さの方がこたえるのかも。ああ、スマホではなかなか気の効いたことが、書けないな。今回の旅の感想は帰国後になりそうだわ。
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新海誠の「天気の子」に感じるもやもや感(一部ネタバレあり)

 新海誠の最新作の「天気の子」を観てきた。初めから終わりまでもやもや感が続いてとれなかったというのが、正直な感想だ。確かに新宿をはじめとする景色は強いリアリティがあり、都会の喧騒と時折見せる静けさの対比の映像も俊逸だった。普段通り過ぎる新宿をはじめとする山手線上半分の景色も、不思議なリアリティを持って引き込まれた。普通アニメでは実在の看板、会社名などは一文字変えるのが当たり前だが、それをしなかったのはさすがだといいたい。バニラの五月蠅い宣伝カーの臨場感もある。高田馬場の道路沿いに目に入る白十字の看板のある風景を使ったいたことなども、変なリアリティを増幅させていたと思った。これまでの新海作品では自然を実際の自然の風景よりもきらきらに美しいリアリティを持たして描いてきたが、今回の作品では都会の喧騒の片隅さもリアリティを持って描いていたと感じた。

 その一方でそのストーリーはとても中途半端だった。主人公の帆高が島の閉そく感を嫌い都会に出たバックグランドは全く描かれず、陽菜(少女)と弟(凪)が何故母親が死んでから2人だけで頑なに周りを頼らず生きているのかも、全く書かれていない。そ作品のカギとなる銃もその出現はあからさまに唐突だった。その上で陽菜が晴れ女となる動機もあまりにも弱すぎた。このどれか一つでも納得を感じさせる背景があればだいぶ作品のストーリー性は違っていたように思う。

 アニメーションには本当のリアリティは必要ないが、作品の世界観を視聴者に納得させる作品上のストーリーの前後を囲むリアリティが必ず必要だ。それが今回の天気の子には全くなかったのだ。風景のリアリティさとはある意味対比的だった。それがもやもや感の大きな原因だったのだろう。前作の君の名も、荒唐無稽なストーリーだったが、それを納得させるような仕掛けが幾つもあった。しかし今回のストーリーはその全部があまりにも唐突だった。君の名では、新海誠がそれまでこだわり続けた「終わらないすれ違い感」を、すれ違いからのハッピーエンドの落とし込み、名作となったが、今回はそうした要素もなかった。君の名では、プロデューサーの川村元気は、ほんとうにしつこくすれ違い感の落とし込みを説得したんだろうが、今回は不足だったのか?

 名作アニメの基本は、「ボーイミーツガール」、「ヒロイン聖女性(処女性、献身性)」、そして「胸躍る冒険性」だ。でも当たり前だが、その要素だけでは不十分だ。そこに、「物語を納得させるリアリティ性」、「細部の無駄なくらいなディテール感」「主人公以外の登場人物の人間くささ(存在感)」が加わることで、名作に仕上がることが多い。だがほとんどのアニメ作品は先の3つの要素は満たしても、あとの3つの要素は満たせていない。6つの要素全てを満たしている作品と言えば、言うまでもなく宮崎駿の一連の作品で、どの作品での細部の無駄なディテールと登場人物に人間くささが、物語の世界観をとても強固にしていると感じれるだろう。

 話を「天気の子」に戻したい。天気の子には、先の6つの要素の内4つの要素はあった。特に細部の無駄なディテール性は宮崎駿に匹敵するかもしれない。それが映像の力を増していた。だが今回は圧倒的に、「物語を納得させるリアリティ性」が足りなかった。そしてそれが「主人公以外の登場人物の人間くささ(存在感)」の不足にもつながったと感じた。これがもやもや感の正体だったんだなと。

 なお、今回の「天気の子」の点数は45点。「君の名」は85点くらいだったので、だいぶ期待外れだったということです。でも最後の終わり方は嫌いではないよ。もしかしたらポニョに対抗したのかも??ちなみに「秒速5センチメートル」は40点、「言の葉の庭」は35点。ちなみに「星を追うこども」は映像的には好きなんだけど、あまりにもラピュタテイストをぱくり過ぎなので採点不能というところ。

 

 

まっちゃんのワイドナショーのコメントに思うこと。

 ワイドナショーでの宮迫と亮の闇営業へのまっちゃんのコメントを聞いた。正直うーん??と思ったよ。世論からは若干反感を買うかも知れないけれど、今の感想を一言だけ書いてみようと思う。

 確かに亮の会見での泣きながらのコメントはネットでは概ね賛同が多く、宮迫へも否定的な意見はいまだ残るが、それまでと比べて風当りはだいぶ弱くなっているように感じた。でもそれは一時の感情に流されているだけの部分も大きい。日本人は権力者が嫌いであり、その権力の構図が宮迫、亮側から吉本上層部に変わった。それが一部の人たちの同情を誘っているだけの気がしている。

 お笑いはある意味言葉の闘いだと個人的に思っている。人より秀でた面白さを武器に時代を駆け上がり、そして名声と金といい女を手に入れる。お笑いとはそんな、下流の武器なのだろう。ダウンタウンとんねるず、うっちゃんなんちゃんあたりまではそんなニオイも残っていた。だが宮迫と亮の会見には一切そんな部分が感じられなかった。吉本をファミリーだと涙ながらに語り、ただただ感謝しかないと言いながら、今回の自分たちのしでかした不祥事の吉本流の解決の方法に文句を言う。そこには笑いを志す人間のプライドが全くなく、自分を守ろうとするしょーもない中年男性の姿しかなかった。なんだろうな。別に吉本の対応が正しいわけではないが、何も悪いことをしていない一般社員(芸人)を守るのもまた会社の大きな仕事だ。闇営業について嘘を塗り重ねた芸人を何故会社が守らなければならいのか?

 吉本側から見ると、宮迫と亮は完全なモンスター社員(芸人)であり、自分のしでかしたことを横に置き、自己保身に走る。これが嘘から数日の後なら、まだよかった。そこにまだ良心を感じられたから。世間からの風当たりが強まり、第2、第3の情報が出てからのこの保身は正直気持ち悪さしかなかった。かつて吉本天然素材での宮迫の体当たりの笑いを愛していたものとして、今の宮迫を本当に見ていられない。金が宮迫を変えたのか。それとも時間が宮迫を変えたのか。どちらにしてもとても悲しい。

 この話題のだいぶ前からテレビでのお笑いが本当につまらない。ユーチュバーがいいわけでないけど、そこには新しさと攻めがまだある。金と名声、女というギラギラとしたかつてのお笑い芸人風のオーラも感じられる。でもコンプライアンスかなんか知らないが、今のテレビのお笑いはそんな部分も感じさせてくれない。とても悲しい。

 まっちゃんはワイドナショーのコメントで、吉本の岡本社長と宮迫が乳首相撲をしたら、問題が解決すると言っていたが、そこだけは共感できた。お笑い界はお笑いでしか救われない。ぜひそれを生放送でやって欲しい。特別ゲストとして50歳を超えた甲本ヒロト、70歳に迫る坂本龍一にも参加してもらおう。もちろんそこにはまっちゃんも。もしそれが出来たならは、テレビのお笑いの復活もあるかもしれない。

 

 

京アニ放火と無敵な人という社会維持コスト。

 京都アニメーションが放火され、30名超アニメータが亡くなった。悲惨の一言でかたずけられない事件だ。でもやはりこの事件へのもやもやとした感情に触れないわけにはいかないと思い、ブログを書き始めた。

 京都育ちの僕にとって、京都アニメーションハルヒで注目を集めるはるか以前から、とても身近な場所だった。小学生の時に友達のおかんが京アニで働いていたこともあり、友達の家で見せてもらった当時の京アニが作っていた(多分下請け)赤い光弾ジリオンやがんばれキッカーズの原画の線と色の華やかさは子供心にとても衝撃を受けてたのを鮮明に覚えている。今の僕のアニメおたくライフのまさに原点は京アニだったんだなと、再認識した。中学生、高校生になり京アニ近くの京阪六地蔵駅のパルスプラザにも同人誌関係のイベントがあったのでよく行ったりもした。パルスプラザのイベントの帰りに京アニで当時働いていた友達の兄ちゃんに会いに行って、京アニの中に少しだけ入らせてもらったのも、懐かしい思い出だ。

 テレビの映像を見て、あの懐かしい京アニが燃えているのは、衝撃以上の何物でもなかった。今日は若干仕事で忙しく、ツイッターもあまり見ていなかったので、京アニの放火ニュースを知ったのは夕方で、その映像の中にはもうどうしよもない感情しかなかった。冥福をお祈りしますという紋切り型の空虚な言葉しか浮かなばいが、それをただただ祈るしかない。

 京アニを放火した男性は41歳とのこと。まさに同世代だ。まだその同期は明らかになっていないが、まさに無敵の人の犯行の可能性が高い。この男の犯行は決して許されるものではないが、同じ氷河期世代の一員として、その犯行に及ぶまでの負の感情には共感が及ぶ部分も少なからずある。飽きられるほどに世代論として語られ、そして解決先もみつからない氷河期世代。無敵の人になるのはその中のほんの一部ではあるのだけど、これからもそれは止まらないだろう。何故なら社会は彼らを認めてくれず、その背景には時代責任論が横たわる。無敵に歩とは、敵に一矢を報いるのは安楽死ではなく、テロに傾く。無宗教で宗教テロがない日本だが、氷河期世代による無敵の人テロがこれから増える可能性は高く、それを避けるすべは今の僕は知らない。

 政府もようやく非正規雇用対策に本腰を入れだしているが、一時の机上のダンスに終わる未来しか想像できない。これからも無敵な人はテロを起こし、これからも多くの人が犠牲になるだろう。そしてその犠牲が僕になることもあるかもしれない。だが資本主義にとっては、それは単なる社会維持のためのコストにしか過ぎない。お金で換算する問題では決してないが、世界は確実に資本主義で動いていることもまた確かだ。人が1人亡くなることにかかるコストは、交通事故の補償金などを見ても、1億円程度に過ぎない(生涯の収入から支出をひいた人生プラスとしても)。感情論的なバックグランドを除くと、無敵な人の放火で30人が亡くなっても、そのコストは30億円に過ぎないということだ。だがその一方で、世間からこぼれ落ちた無敵な人=氷河期世代リカバリーするためのコストは数千億以上かかることは間違いなく、それによる成果も不透明だ。受け皿としての企業都合もいろいろとあるだろう。

 そういうことだ。資本主義が続く限り無敵の人を救うことに資源を投入することは現実的でなく、政府も重い腰を上げることはないだろう。無敵の人による犯罪は今や交通事故のように社会維持コスト化と考えるしかない時代なのだ。交通事故が危険だから車の運転を全廃止するわけがないように、無敵の人の犯罪リスクはこれからも放置され続けるしかない。ここからしばらくは京アニ放火は世間の話題を集めるだろうが、それもいつしか消える。でも数年後に同じような事件は必ず繰り返される。無敵な人によって繰り返される。でもそれはどうしようもない。悲しいけどどうしようもない。でもその答えをなんとかして探すのが、京アニへのレクイエムなのだろうか。