新海誠の最新作の「天気の子」を観てきた。初めから終わりまでもやもや感が続いてとれなかったというのが、正直な感想だ。確かに新宿をはじめとする景色は強いリアリティがあり、都会の喧騒と時折見せる静けさの対比の映像も俊逸だった。普段通り過ぎる新宿をはじめとする山手線上半分の景色も、不思議なリアリティを持って引き込まれた。普通アニメでは実在の看板、会社名などは一文字変えるのが当たり前だが、それをしなかったのはさすがだといいたい。バニラの五月蠅い宣伝カーの臨場感もある。高田馬場の道路沿いに目に入る白十字の看板のある風景を使ったいたことなども、変なリアリティを増幅させていたと思った。これまでの新海作品では自然を実際の自然の風景よりもきらきらに美しいリアリティを持たして描いてきたが、今回の作品では都会の喧騒の片隅さもリアリティを持って描いていたと感じた。
その一方でそのストーリーはとても中途半端だった。主人公の帆高が島の閉そく感を嫌い都会に出たバックグランドは全く描かれず、陽菜(少女)と弟(凪)が何故母親が死んでから2人だけで頑なに周りを頼らず生きているのかも、全く書かれていない。そ作品のカギとなる銃もその出現はあからさまに唐突だった。その上で陽菜が晴れ女となる動機もあまりにも弱すぎた。このどれか一つでも納得を感じさせる背景があればだいぶ作品のストーリー性は違っていたように思う。
アニメーションには本当のリアリティは必要ないが、作品の世界観を視聴者に納得させる作品上のストーリーの前後を囲むリアリティが必ず必要だ。それが今回の天気の子には全くなかったのだ。風景のリアリティさとはある意味対比的だった。それがもやもや感の大きな原因だったのだろう。前作の君の名も、荒唐無稽なストーリーだったが、それを納得させるような仕掛けが幾つもあった。しかし今回のストーリーはその全部があまりにも唐突だった。君の名では、新海誠がそれまでこだわり続けた「終わらないすれ違い感」を、すれ違いからのハッピーエンドの落とし込み、名作となったが、今回はそうした要素もなかった。君の名では、プロデューサーの川村元気は、ほんとうにしつこくすれ違い感の落とし込みを説得したんだろうが、今回は不足だったのか?
名作アニメの基本は、「ボーイミーツガール」、「ヒロイン聖女性(処女性、献身性)」、そして「胸躍る冒険性」だ。でも当たり前だが、その要素だけでは不十分だ。そこに、「物語を納得させるリアリティ性」、「細部の無駄なくらいなディテール感」「主人公以外の登場人物の人間くささ(存在感)」が加わることで、名作に仕上がることが多い。だがほとんどのアニメ作品は先の3つの要素は満たしても、あとの3つの要素は満たせていない。6つの要素全てを満たしている作品と言えば、言うまでもなく宮崎駿の一連の作品で、どの作品での細部の無駄なディテールと登場人物に人間くささが、物語の世界観をとても強固にしていると感じれるだろう。
話を「天気の子」に戻したい。天気の子には、先の6つの要素の内4つの要素はあった。特に細部の無駄なディテール性は宮崎駿に匹敵するかもしれない。それが映像の力を増していた。だが今回は圧倒的に、「物語を納得させるリアリティ性」が足りなかった。そしてそれが「主人公以外の登場人物の人間くささ(存在感)」の不足にもつながったと感じた。これがもやもや感の正体だったんだなと。
なお、今回の「天気の子」の点数は45点。「君の名」は85点くらいだったので、だいぶ期待外れだったということです。でも最後の終わり方は嫌いではないよ。もしかしたらポニョに対抗したのかも??ちなみに「秒速5センチメートル」は40点、「言の葉の庭」は35点。ちなみに「星を追うこども」は映像的には好きなんだけど、あまりにもラピュタテイストをぱくり過ぎなので採点不能というところ。