京都アニメーションが放火され、30名超アニメータが亡くなった。悲惨の一言でかたずけられない事件だ。でもやはりこの事件へのもやもやとした感情に触れないわけにはいかないと思い、ブログを書き始めた。
京都育ちの僕にとって、京都アニメーションはハルヒで注目を集めるはるか以前から、とても身近な場所だった。小学生の時に友達のおかんが京アニで働いていたこともあり、友達の家で見せてもらった当時の京アニが作っていた(多分下請け)赤い光弾ジリオンやがんばれキッカーズの原画の線と色の華やかさは子供心にとても衝撃を受けてたのを鮮明に覚えている。今の僕のアニメおたくライフのまさに原点は京アニだったんだなと、再認識した。中学生、高校生になり京アニ近くの京阪六地蔵駅のパルスプラザにも同人誌関係のイベントがあったのでよく行ったりもした。パルスプラザのイベントの帰りに京アニで当時働いていた友達の兄ちゃんに会いに行って、京アニの中に少しだけ入らせてもらったのも、懐かしい思い出だ。
テレビの映像を見て、あの懐かしい京アニが燃えているのは、衝撃以上の何物でもなかった。今日は若干仕事で忙しく、ツイッターもあまり見ていなかったので、京アニの放火ニュースを知ったのは夕方で、その映像の中にはもうどうしよもない感情しかなかった。冥福をお祈りしますという紋切り型の空虚な言葉しか浮かなばいが、それをただただ祈るしかない。
京アニを放火した男性は41歳とのこと。まさに同世代だ。まだその同期は明らかになっていないが、まさに無敵の人の犯行の可能性が高い。この男の犯行は決して許されるものではないが、同じ氷河期世代の一員として、その犯行に及ぶまでの負の感情には共感が及ぶ部分も少なからずある。飽きられるほどに世代論として語られ、そして解決先もみつからない氷河期世代。無敵の人になるのはその中のほんの一部ではあるのだけど、これからもそれは止まらないだろう。何故なら社会は彼らを認めてくれず、その背景には時代責任論が横たわる。無敵に歩とは、敵に一矢を報いるのは安楽死ではなく、テロに傾く。無宗教で宗教テロがない日本だが、氷河期世代による無敵の人テロがこれから増える可能性は高く、それを避けるすべは今の僕は知らない。
政府もようやく非正規雇用対策に本腰を入れだしているが、一時の机上のダンスに終わる未来しか想像できない。これからも無敵な人はテロを起こし、これからも多くの人が犠牲になるだろう。そしてその犠牲が僕になることもあるかもしれない。だが資本主義にとっては、それは単なる社会維持のためのコストにしか過ぎない。お金で換算する問題では決してないが、世界は確実に資本主義で動いていることもまた確かだ。人が1人亡くなることにかかるコストは、交通事故の補償金などを見ても、1億円程度に過ぎない(生涯の収入から支出をひいた人生プラスとしても)。感情論的なバックグランドを除くと、無敵な人の放火で30人が亡くなっても、そのコストは30億円に過ぎないということだ。だがその一方で、世間からこぼれ落ちた無敵な人=氷河期世代のリカバリーするためのコストは数千億以上かかることは間違いなく、それによる成果も不透明だ。受け皿としての企業都合もいろいろとあるだろう。
そういうことだ。資本主義が続く限り無敵の人を救うことに資源を投入することは現実的でなく、政府も重い腰を上げることはないだろう。無敵の人による犯罪は今や交通事故のように社会維持コスト化と考えるしかない時代なのだ。交通事故が危険だから車の運転を全廃止するわけがないように、無敵の人の犯罪リスクはこれからも放置され続けるしかない。ここからしばらくは京アニ放火は世間の話題を集めるだろうが、それもいつしか消える。でも数年後に同じような事件は必ず繰り返される。無敵な人によって繰り返される。でもそれはどうしようもない。悲しいけどどうしようもない。でもその答えをなんとかして探すのが、京アニへのレクイエムなのだろうか。