みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

結局世の中を変えるのは悲しい暴力しかないのか。

 安倍元首相が7月8日に奈良で参議院選挙の応援演説中に山上徹也容疑者に殺害されて、もう1週間近く経った。安倍元首相の政治信念に共感していたわけでなく、どちらかというと反安倍論者だったが、それでも、日中の閑散とすらしていた奈良の大和西大寺駅での安倍氏の暗殺には、悲しみしかなった。直接は知らないがなんとなく身近にいた、少し人が良さそうな政治家のおじさん。多くの国民にとっての安倍氏はこんな印象であったろうし、安倍氏の死亡から「こころにぽっかり穴があいた」的な発現がSNSでも目立っていたが、自分のここ数日の感覚もこれに近かった。気軽に「お悔やみ申し上げます」と呟けないような、何かものものしい、そしてもやもやした感情がそこにはあった。そんな感情もようやく落ち着きだしたので、今の自分が感じる思いをとりあえずまとめて置きたい。

 安倍氏は、この15年近く日本の政治の中心付近に立つ続けていた人物であり、アベノミクスの賛否両論はポジションにより大きく変わるが、良くも悪くも今のこの時の日本を作った政治家であることは間違いない。その功罪の評価は現在進行中で、たかが一個人が語るような浅い話題ではなく、十年、数十年先に多くの学者が分析して、初めて評価されるものだろうし、ここでは深くは語らないし語れない。

 安倍氏が殺害されてから数日はテレビが全く語らなかった山上容疑者の統一教会への長年の怨恨と安倍氏との関係性だが、今やテレビでもこれでもかというくらい話題の中心となり、ネットやSNSでも玉石混合の情報が錯そうする。自称有識者や無知な芸能人が至るところで無責任な持論を垂れ流してもいるが、一つだけそこで不思議に思うことがある。多くの人が、安倍氏を悼み、統一教会銭ゲバカルト商法憎しのスタンスばかりで、そこには何故か、驚くほど山上容疑者への批判の念も、ダークヒーロー的な憧れ的な崇拝も、両方ともあまり感じられない。それが何故だか考えてみると、山上容疑者は多分、見た目、背格好も含め、あまりにも普通過ぎるのだ。クラスの片隅でなんとなく佇んでいそうな容姿と佇まい、多分道ですれ違ってもほとんどの人が気に留めないその見た目とは裏腹に、統一協会との関係があった安倍氏の殺害に至ったまでの、統一教会への恨みの強い感情が、どうしても上手くマッチしないのだ。

 最近の殺人や暴力の傾向、痴情のもつれ、出会い系殺人、無敵の人など、何かおかしな奴が起こすおかしな事件が溢れていた。池田小事件の宅間や秋葉原事件の加藤も、明らかに世の中を恨むサイコパス臭にまみれていた。最近の持続化給付金詐欺の一連の逮捕者をみても、そこにはドロドロとした醜いものがあふれているさもありなんの風貌だった。だが安倍氏を殺害した山上容疑者は、その動機はそのどれにも当てはまらないある意味純粋で、統一教会憎しというただ一つの動機がひどく純粋に映ったのだ。その矛先は安倍氏暗殺という最悪の結果となったが、その生い立ちと動機は、多くの人が今の自分と紙一重と感じるには十分だったのかもしれない。それに個性が薄い人畜無害っぽい山上容疑者の風貌が加わり、多く人に山上容疑者への批判を、無意識にもためらわせているのではと感じた。

 普通の庶民がどうしようもなく起こす悲しい暴力は、今までも多くの世界の風景を変えてきた。近くでもチュニジアの青年の焼身自殺からの一連のアラブの春の事件があり、1789年のフランス革命では、庶民が王家の無秩序な贅沢三昧に怒り狂い、ルイ16世、マリーアントワネットをはじめ多くの王族、貴族が公開処刑された。そして世界中が第二次世界大戦で世界中が殺し合ったのも、わずか77年前だ。

 暴力はだめなものなのはもちろん大前提だが、暴力でしか、変えられないもの、変わらないものも確実にある。少なくとも暴力は歴史を変えるきっかけになってきたことは確かだ。世界中で格差が広がり、ポジショントークで丸め込む大金持の小づるさをはっきり言って頭脳戦では止めることほぼ無理だろう。部落解放運動を描いた住井すゑの「橋のない川」や中国の近代史を描いたパールバックの「大地」、スタインベックの「怒りの葡萄」あたりの歴史闘争の古典を読んでみても、歴史を大きく変えるきっかけは暴力だったこと、その先に現代があることを思い返させてくれる。日本人が、暴力による大きな政権転覆を果たした最後の事件が、言わずもがな、一連の幕末の騒乱と明治維新だ。200年以上続いた江戸幕府への不満を下級武士、平民が著しく溜め込み、そして長州、薩摩がお上に逆らうテロリスト化したことで、明治維新は成し遂げられた。江戸の末期、尊王攘夷を掲げた下級武士たちはその当時は明らかにテロリスト扱いだったし、愉快犯も少なくなかっただろう。だがそれから150年の月日が流れ、幕末の尊王攘夷派をテロリストとは呼ばれない時代となった。何故なら暴力が世の中を変えたからだ。暴力も目的を遂行すれは、それはいつのまにか聖戦となる。安倍氏の祖先がそれを身をもって成したのだが、そして150年後に子孫が権力についたあとにその逆が起こるとは、歴史とはまさに皮肉の積み重ねなのだろう。

 今のところ山上容疑者の素顔は謎につつまれており、多くは推測の域を出ない。ただ一つだけ確かなことは彼は誰も助けてくれなかった統一教会の被害者であり、その恨みを晴らすために彼は暴力での解決(自分の中での納得)を選んだ。山上容疑者は、40代の自分と年齢もほとんど変わらず、そして彼のあまりにも普通すぎ見た目が、多くの人に「自分と彼との違いの紙一重の差」を実感させられ、何も言えなくなっている部分も大きい。気を抜くと、彼の寂しさの後ろにいつかの自分、今の自分が映るのだ。

 悲しい暴力は世の中を変えるきっかけになる。山上容疑者の安倍氏殺害が、今後の統一教会の廃止へともつながるのか、さらには弱者を食い物にする多くの貧困ビジネスへの撲滅にも向かい、金持ちをビビらせ世の中の不公正を変え、日本版のアラブの春に向かうのか、それは全く分からない。(ただしアラブの春は混乱を招いたが結局は成功はしていない)。でも少なく一人の普通の男が命をかけてこれだけは行いたかった悲しい暴力が、日本の何かを変えるきっかけになるかもと、感じ出している。