みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

集中力の種類と日本の衰退の必然性。

 自己啓発系、マーケティング系、はたまた芸術論系の本を読んでいるとたどりつく概念に集中力の種類というものがある。そこでも表現のされ方はいろいろだが、集中力は大きく、「早い集中力」「深い集中力」「長い集中力」に分類されるており、それは性格や個性のように後天的に身につけるものというより先天的な要素が大きい。

 ざくっとまとめると、「早い集中力」は、ひとつのタスクにより早く集中できる能力。「深い集中力」はひとつのタスクに、より深く没頭できる能力。そして「長い集中力」は、ひとつの仕事を単調でも、集中して長時間続けることができる能力だ。イメージすると「早い集中力」は試合本番に合わせて最大のコスパを発揮するアスリート系に大切な能力、一方で「深い集中力」は、より没頭して高いクオリティの作品を仕上げる芸術家思考の能力だろう。そして最後の「長い集中力」は、毎日の単調で代り映えのない仕事をこなすサラリーマン(雇われ人)にとって欠かせない能力だろう。

 円ドルレートが130円を超え安いニッポンが日に日に加速している日本だが、30数年前の日本は、世界中が羨む「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だった。その頃の日本が何故世界1の経済力を身につけたかは複合的な要素があるが、戦後がらがらぽんからの復活、若くて安い労働力の供給、自国での1億人強の大きな市場、東西冷戦でのグローバル化の抑制、様々な日本にとって有利な面が時代として味方した。

 そしてこの時に日本の大きな武器の一つとなっていたのが、日本人の得意とする「長い集中力」だと、個人的には思っている。世界各国の思考パターンは民族人種というより地政学要素に大きく左右され、遊牧民思考、畑作民思考、稲作民思考の3つにおおまかに分類される。日本は圧倒的に稲作民思考で、田んぼをつくり、地域で水源を協力して守り地域の秩序を守り、そして長時間稲作を中心に暮らしてきた日本は、古来から「長い集中力」が得意の耐えるDNAを持っていた。それが戦後の焼野原から、国民が協力してわずか15年で「もはや戦後でない」と池田勇人に言わしめた復興力を実現させたのことには異論は少ないだろう。そしてその後も日本は突き進み、1990年のバブル崩壊まで、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を突き進んだ。

 しかしそれから今日までの日本の衰退は、日本民族の「長い集中力」の特性がもたらした弊害の30年でもあった。1990年代から2022年の今まで、時代のビジネスに必要だった集中力のタイプは、「長い集中力」ではなく、「深い集中力」と「早い集中力」だった。時代のビジネスは、日本が得意とする「長い集中力」を使った協力型モデルではなく、GAFAM企業の創業者をはじめ、一部の天才が「深い集中力」の上で生み出したビジネスモデルを世界中のプラットフォームとなるモデルに占拠させるタイプに、一気に変貌した。少しよいものではなく、よりよいものが全てを制する勝者総取り感の高いパターンに、世界のビジネスモデルは変貌した。

 「早い集中力」でも日本は遅れを取った。東南アジア市場の開拓などはその最たるもので、先行利益は今はまだ少しは残っているが、日本が古いスタイルを続けて決断を後回しにしているうちに、「早い集中力」を持ちスピード感にまさる中国、韓国に東南アジア市場での多くの製品のカテゴリーに逆転された。日本のかつてのお国芸だった電気製品の失速、スマホガジェット開発の乗り遅れなどでも、「早い集中力」を持つ中国、韓国にいつのまにか追い抜かれていた。

 いつの間にか日本に残っていたのは、”安いニッポン”だけになっていた。たまに皮肉交じりに友人知人に言うのだが、日本がバブル後に残した付加価値は「安さ」だけだったねと。そのことはコロナで安さ目的で日本に旅行しにきたインバウンド消費とその消滅からの今を見ても、その通りだと思う。だがこの1カ月の急激な円安で、その日本の最後の強みの「安さ」も風前の灯になってしまった。それでもまだまだ日本人の危機感は薄く、円安もエンターテイメントの一環のように世の中には流れている。特に底辺インデックス投資家のどや顔トークは鼻につくばかり。円安で国力を低下している中で、小金を海外に投資する行為は、日本の円の価値をさらに下げる行為であり、自分だけの必死の生き残りたさに、下劣な品性に興ざめしている。

 短文のつもりが長々と文章を書いてしまったが、今後の日本の在り方の答えなんてもちろん持っているわけはない。少し考えてみたが、結局は低コスト生活というどこにでもいるミニマリスト思考が一番ましという厄介な答えにしかたどり着かず、もう疲れたので、このへんでペンを置くことにする。