みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

フラット化した世界の先には、何が待っているのだろう

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 今、ラオスビエンチャンにいる。初めてラオスに来たのは1999年なので、17年前ということになる。17年前のラオスの記憶はとてもおぼろげで、思い出せないのだけれど、とても田舎だったのだったことだけは確かだ。僕がそれなりに東南アジアに関わりだしたきっかけは、大学で学んでいた文化人類学で、タイ東北部のリス族やアカ族の村でフィールドワークしようとしたのが、きっかけだったのだと思い出した。その頃=90年代後半という時代は、90年前後に少数民族の村に電気が入りテレビが普及し始めたことで、都会の情報が一気に広がり、少数民族の個性が消えかけていた時代だった。そんな光景をみつつ、世界はどこに向かうのだろと、まどっていたのが笑い話のような劇的な変化がその後起きんだよね。

 しかし、本当に世界の風景は、大きく変わった。それが良い意味なのか、悪い意味なのか、僕は答えを出せないけれど。特に何が大きく変えたのかというと、それはもちろんスマホの存在が一番だろう。インターネットが世界を変えたと、よく言われるが、確かにインターネットを一部、特に先進国の人たちの見る風景を大きく変えたに過ぎなかった。グローバル企業の世界分散の生産体制もそれに近いだろう。それを一気にさらに多くの国、庶民レベルにまで広げたのが、スマホなんだろうな。数年前までは先進国と途上国との間に確実に、情報格差が存在していたのだが、スマホの普及を通して、それは一気に消えてなくなった。スマホを持った人間の全てが、均等に情報の渦にアクセスし、自分の求めている情報をつかむ。なかなかすごいことだ。ミルトン・フリードマンは、インドの高学歴のIT技術者のサクセスストーリーや、世界の自動車工場の生産体制を例に出しながら世界のフラット化を論じたが、スマホの出現で、世界のフラット化は、そんな時間をかけたフラット化ではなく、一気に何段も先に前進したんだ。それも気づかないうちに。

 それを良い、悪いという権限は僕にはないんだけど、とても寂しい気持ちになったよ。東南アジアに限ればどこの街角でも現地SIMさえいれればスマホがつなげ、知りたい情報にすぐにアクセスできて。今日の午後もビエンチャン市内で迷いかけたときに、グーグルマップにとても助けられたし。ちなみにラオスでもタイと同日の8月5日にポケモンGOがスタートしてて、けっこう街中でもやってる若者を見かけたしね。ほんと日本と変わらない。スマホが、世の中の景色をすごくフラットにしているんだよなぁ。

 世界のフラット化が進んだ先には、一体何が待っているのだろう。答えは、もちろん分からないが、10年後、20年後には必ず来るであろうその先を見てみたい。それだけは確かだわ。どんだけ景色が変わっても変わることのない、ヴィエンチャンからタイのノンカイに望むメコン川の夕焼けを見ながら、ふとそんなことを考えてた。(写真はヴィエンチャンから見るメコンに沈む夕暮れ)。

 

 

 

 

ポケモンGO協奏曲

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 世の中がポケモンGOで溢れ出して、10日近くが過ぎた。個人的にもぼちぼちプレーしているが、レベル11、集めたポケモン49とまぁ、かなりたいしたことない。すでに日本でもコンプリートした人が何人も出てるというしね。しかし、ポケモンGOが始まって、なんとなく見ている景色が変わったかもしれない。これこそまさに、ポケモンGO協奏曲という感じなのかな。

 ポケモンGOをしていると、一種の仮想現実が隣にいて、少しだけ見ている景色を変えてくれる。それがなんなのか、一言では言えないけど、それをみんな感じているから、ポケモンGOを続けているのだろうな。電脳コイルまではいかないが、それの10%くらいは。個人的には、ポケモンが発売したときは高校をちょうど卒業したあたりで、基本的にポケモン世代ではない。うーんなんなんだろうな。

 ただポケモン世代だから、ポケモンGOを楽しんでいる人が多いかとというと、そうでもない気もしていて、おっさんプレイヤーも多いしねぇ。都内なので、上野公園も、錦糸公園も、明治神宮も仕事の合間に少しは寄ったんだけど、まぁ熱気はすごいね。さらに、いろんな雑誌を読んでいても、ポケモンGOがらみの企画ばかりだし。まぁ旬なので、そうなるか。ただ何の雑誌が忘れたけど、「ポケモンGOはおっさんがナンパする最適ツール、特にサトシという名前はもてるんだよ」と書いてあって、少し吹きそうになったよ笑。それだけだけど。

 でもこうしたマンネリな日常への微妙は変化が、ポケモンGOの魅力なんだろうね。まぁ、現時点での感想はこんなもんなのかな。

 

 

 

昭和も遠くなりにけり。

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 大橋巨泉が亡くなった。

 数日前に永六輔が亡くなったばかりだった。数日前に小岩の飲み屋で、82歳のじいさんが、「えいちゃんとは昔仲良かったたんだ。浅草や小岩の飲み屋でよく朝まで飲んだよ」と自分語りしたてので、「それってどれくらい前ですか」と尋ねたら、20代の頃とのこと。えらい前だなと思いつつ、それぐらい前でも永六輔は第一線で活躍してたんだと思わず驚嘆したんだよな。でも永六輔が自分にはそこまで馴染みがなかったりして、話をスルーしてたんだけど。

 でも、大橋巨泉は、ずばり、自分の青春前期のどんぴしゃだったんだよな。クイズダービーに、ぎみぁブレイク。今思えば、巨泉的にはテレビ末期の番組だったんだけど、個人的には中学、高校生の時にはなんかハマってなんだよなぁ。ビートたけしをたけちゃん、石坂浩二をへいちゃんと言う上から目線は、うっとうしい感もあったけど嫌いじゃなかったな。特にぎみぁブレイクは好きだったなぁ。クイズ王決定戦に、笑うセールスマン、巨泉の使える英会話。中学生ながらに、楽しみににしてたっけ。ちなみに笑うセールスマンの喪黒福蔵は、ゲバゲバ90分の時に大橋巨泉がモデルなんだってさ。そう言えば、少し面影あったかもなぁ。

 ほんと昭和は遠くなりにけりだよ。平成ももう28年目で、僕もそれだけ無意識に歳を重ねているんだなと、再認識したよ。うん。もう遠いね。

 

 

うさんくさいけど、とても優しい。

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 「ひとつ屋根の下」のドラマを観た。それこそオンタイムで放送していたぶりに観たかもしれない。Dテレビで無料でやっていたから。1作目の方だ。観ながらなんだか、泣きそうになったよ。うさんくさいけど、とても優しいから。

 1993年の作品だから、今からもう23年前になるのか。時代はもう平成だったけど、まだなんとなく昭和の匂いが残っていた時代だったんだろうね。江口洋介福山雅治は20代半ばで、酒井法子は20代前半、いしだ壱成はまだ18、9歳で、山本耕史はまだ15、6歳だったんじゃないかな。まだ携帯の普及していなかった時代で、黒電話すらそんなに珍しくなかったんだよな。さすがに、5人兄弟がひとつ屋根の下に住んでいる家庭は少なかったけど、近所にも大家族がいたしね。ドラマの設定は、当時でも少し日常とはかけ離れていたけど、それでも当時は「ありそうでなさそうな」感じで、違和感なく、観れたんだろうな。ちなみに舞台ば高円寺だったんだね。当時は全然意識してなかったわ。

 あんちゃん(江口)は家族、周辺の人たちにおせっかいばかりやいて、空回りしているけど、それがとても優しくて、羨ましかったな。和也(いしだ)も、なんかザ・青春の苦悩みたいな感じで、当時高校生だった自分も、けっこう共感したな。いまいち当時からちーにいちゃん(福山)には、共感がわかなかったけど、おじさん(当時50代後半だった山本圭)の演技もなんか心に残ったな。それから何作から、1960年代の山本圭出演の作品観たりしたな。吉永さゆりと恋人役だった「人間と条件」とか、なかなかよかったし。小梅(大路恵美)のレイプシーンも、当時はほんとうに悲しかったよ。

 話がすこしそれてしまったけど、この作品の中にある優しさは、もう今の時代には手が届かないのだろうな。そう強く感じている。人との接し方が変わってしまったからね。いつまでも手の届く場所にあると思っていたものが、いつのまにか全然遠いものになっていた。そんな心境かな。でも23年って思っているより、長い年月なのだろう。

 当時の優しさは、言うなれば半径1キロの優しさで、自分の生活の中にいる人への優しさだった。でも今の優しさは少し違うんだろうね。不自然というか、無機質というか。東日本大震災熊本地震へのボランティア、遠く離れたアフリカや東南アジアの子供たちへの支援など、優しさはいまだに世の中には溢れているのだけど、なんだか無機質な感じがするんだ。東日本大震災のボランティアには行くけど、近所のおばちゃんには挨拶ひとつしない。カンボジアの子供支援のワークショップには行くけど、近所で困っているおばあちゃんには手を差し伸べない。そんな感じなのかな。

 グローバル化は大変だ。身近なことさえ十分でないのに、いつのまに世界が身近な気がしていて。やることが沢山で、ちぐはぐで。少し違う気がしてるんだ。

 「ひとつ屋根の下」の時代の頃は、今思うとひとつの分岐点だったんだろうな。うさんくさい優しさが、今ほどに不自然さを感じない、そんな時代の最後だったのかな。そんな単純なやさしさがすごく懐かしくて、羨ましい。さて、どうしたもんだろうね。