みとのひとりごと

関西人、東京在住。人生いまだ考え中。昭和の残香がするすみっこが好き。

セミリタイヤと居場所。

 少し前までセミリタイヤをしたくて仕方なかったのだけど、最近になってその気持ちが薄らいできている。その理由はセミリタイヤブロガーの薄気持ち悪さのせいだ。それまではけっこう楽しんで読んだいたブログも、セミリタイヤに入ってすばらく経つとそのほとんどが、更新が止まるか、自意識過剰な自己(セミリタイヤ)肯定の記事に流れてします。それを肌で感じてセミリタイヤの無常さを感じているから。

 そうなる理由はなんとなく分かる。それは人生へのインプットがなくなるからだ。それが更新停止か自己肯定=自分の居場所づくり、自意識過剰に人を走らせる。どんだけ嫌な仕事をしていても、仕事をしているだけで毎日なにかしらのイベントが起こる。それがかなり不快な出来事だったとしても、毎日に少なくとも変化は生じる。それに比べてセミリタイヤは単調の繰り返しだ。まわりも自分の意見、生活に肯定的な人しか集まらなくなり、頭の回転は日々単調になり、いつしかポジショントーク的なバランスのかけらもない腐敗臭で満たされてしまう。本人たちは自分たちが自由に生きているの発信しているのだろうけど、そこには居場所がない人間が自己肯定を求める気持ち悪さ、寂しさだけが漂う。まぁそれはセミリタイヤだけでなくイケ●ハヤ●みたいな新しい働き方を語る人種などもそうなのだけど笑。それを感じてしまいすごく心地悪い。多くのセミリタイヤ願望者はセミリタイヤという目的を果たして何もなくなる。だから自己肯定と自分の居場所を求めて過剰になり、より気持ち悪さが増す。そういう連鎖なのだろか。

 人はやはり社会的な動物なんだなと改めて感じる。まわりの不特定多数の他者、味方でも敵でもな偶発性のある他者と関わらないと、一気に悪い方=自己主義に偏ってしまうのだろう。実は世間の貧乏セミリタイヤ以上の資金はすでにあったりする。でも最近セミリタイヤへの意欲がわかない。労働は確かに面倒なのだけど、そこにはセミリタイヤとは違う他者から強要されたこそ発生する偶発性の出来事が毎日少しはある。そんなことを考えていた。人生とはほんと、難しいものだ笑。