みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

最近の人生のとりとめもない感想。

 最近の暑さもあって、まるでやる気がない。8月前半にいろいろ仕事の予定もあったのだが、諸事情で8月後半に先送りになってしまって、足元は特に暇だったりした。日に日にマンネリ感が募るのだけれど、その解決策も浮かんでこない。暇つぶしのアイデアを考えてみるのだけど、40数年も生きていると、これまで試してきてあまり盛り上がらなかったアイデアばかりで、試すための新しい一歩も出ない。完全に人生が行き止まっている感だ。考えると30代の行き止まり感と40代の行き止まり感は違うな。30代の時は、他人とのどうしようもない比較にぐちゃぐちゃ悩んでもしたし、悩みの先に何か道が開けるんじゃないのかという、そんな淡い期待もまだかろうじてあった。30代前半から後半にかけてその感じは徐々に薄れ、40代に入って、さらに先の道に期待する感じもさらに薄れてきた。結婚して子供でもいたらこの感じが子供の将来の期待に向かうのだが、子供がいないのでそのステージには行けない。今更そのステージに行く勇気もない。今更結婚して隣によく知らないおばさんがいる暮らしには耐えられそうにないので、資産が10億円くらいあって8LDKの家にでも住まい限り、結婚するのはしんどいという感想、性格が怠け者には結婚ハードルももやたらと高い。モテるとかモテないじゃなくて、めんどさくないかどうかが人生の判断基準になりつつある年頃。

 かと言って最近セミリタイヤ族に対しては憧れもないし、どちらかというと気持ち悪さの方が強い。セミリタイヤしてぬるく世界一周だとか、歩いて日本一周だとか、少しだけやりたいこともあるが、そこまで今すぐしたいテンションもない。40代は先が見えているようで、まだまだ先が長いという微妙な感じもある。職場でも立場がえらくなり、仕事もそんなに嫌でもないも、なんとなく前に進めない大きな要素。現状に流されてしまっているとしか言えない。

 株で資産を作るのも停滞して、うまくいかない。コロナ禍2年弱の相場で7000万円強負けて、今の資産は数千万円しかない。振り返ると、リーマンショックの前、ライブドアショックの前から居た人間も大負けしていたと感じた。当時の2番底相場を考えると確実のコロナ初動の底練りは空売り浴びせバイアスがあったんだけど、今回はそこの空売りが、地獄の入り口になった人も多い。リーマンショック後参入したビギナー族は、そんなバイアスを想像もせず大儲けできたんだけど、それもまた相場。相場は繰り返すようで繰り返さなないのもまた相場。株で大勝ちするたった一つの理由は、人の流されないことなんだけど、ただ今のネット社会では人に影響されないというのは、世界中どこに行っても難しい。自分もこれまでの相場歴20年強で、10倍株を仕込み当てたことは2度あったが、まぁ今からその握り力と自信を取り戻すのも難しい。

 8月14日から8日くらい九州旅行に行く航空券を取ってしまった。8月14日に鹿児島インで21日に長崎アウト。鹿児島の旅館2泊は予約しているが、その他のルートは未知数なんで、1か所の滞在を多くまったり型にしようかなと考え中。旅行行くまでにテンションを上げないとな。飛行機をキャンセルしてまで行かないという選択肢はさすがにないので。とりあえず桜島には噴火で行けないだろうし、早めに別府温泉でも行って、のんびりしようかなとか、テキトーに考え中。まぁこれからもだらだらと過ごしていくしかかいのだろうかね、しかし。

 

結局世の中を変えるのは悲しい暴力しかないのか。

 安倍元首相が7月8日に奈良で参議院選挙の応援演説中に山上徹也容疑者に殺害されて、もう1週間近く経った。安倍元首相の政治信念に共感していたわけでなく、どちらかというと反安倍論者だったが、それでも、日中の閑散とすらしていた奈良の大和西大寺駅での安倍氏の暗殺には、悲しみしかなった。直接は知らないがなんとなく身近にいた、少し人が良さそうな政治家のおじさん。多くの国民にとっての安倍氏はこんな印象であったろうし、安倍氏の死亡から「こころにぽっかり穴があいた」的な発現がSNSでも目立っていたが、自分のここ数日の感覚もこれに近かった。気軽に「お悔やみ申し上げます」と呟けないような、何かものものしい、そしてもやもやした感情がそこにはあった。そんな感情もようやく落ち着きだしたので、今の自分が感じる思いをとりあえずまとめて置きたい。

 安倍氏は、この15年近く日本の政治の中心付近に立つ続けていた人物であり、アベノミクスの賛否両論はポジションにより大きく変わるが、良くも悪くも今のこの時の日本を作った政治家であることは間違いない。その功罪の評価は現在進行中で、たかが一個人が語るような浅い話題ではなく、十年、数十年先に多くの学者が分析して、初めて評価されるものだろうし、ここでは深くは語らないし語れない。

 安倍氏が殺害されてから数日はテレビが全く語らなかった山上容疑者の統一教会への長年の怨恨と安倍氏との関係性だが、今やテレビでもこれでもかというくらい話題の中心となり、ネットやSNSでも玉石混合の情報が錯そうする。自称有識者や無知な芸能人が至るところで無責任な持論を垂れ流してもいるが、一つだけそこで不思議に思うことがある。多くの人が、安倍氏を悼み、統一教会銭ゲバカルト商法憎しのスタンスばかりで、そこには何故か、驚くほど山上容疑者への批判の念も、ダークヒーロー的な憧れ的な崇拝も、両方ともあまり感じられない。それが何故だか考えてみると、山上容疑者は多分、見た目、背格好も含め、あまりにも普通過ぎるのだ。クラスの片隅でなんとなく佇んでいそうな容姿と佇まい、多分道ですれ違ってもほとんどの人が気に留めないその見た目とは裏腹に、統一協会との関係があった安倍氏の殺害に至ったまでの、統一教会への恨みの強い感情が、どうしても上手くマッチしないのだ。

 最近の殺人や暴力の傾向、痴情のもつれ、出会い系殺人、無敵の人など、何かおかしな奴が起こすおかしな事件が溢れていた。池田小事件の宅間や秋葉原事件の加藤も、明らかに世の中を恨むサイコパス臭にまみれていた。最近の持続化給付金詐欺の一連の逮捕者をみても、そこにはドロドロとした醜いものがあふれているさもありなんの風貌だった。だが安倍氏を殺害した山上容疑者は、その動機はそのどれにも当てはまらないある意味純粋で、統一教会憎しというただ一つの動機がひどく純粋に映ったのだ。その矛先は安倍氏暗殺という最悪の結果となったが、その生い立ちと動機は、多くの人が今の自分と紙一重と感じるには十分だったのかもしれない。それに個性が薄い人畜無害っぽい山上容疑者の風貌が加わり、多く人に山上容疑者への批判を、無意識にもためらわせているのではと感じた。

 普通の庶民がどうしようもなく起こす悲しい暴力は、今までも多くの世界の風景を変えてきた。近くでもチュニジアの青年の焼身自殺からの一連のアラブの春の事件があり、1789年のフランス革命では、庶民が王家の無秩序な贅沢三昧に怒り狂い、ルイ16世、マリーアントワネットをはじめ多くの王族、貴族が公開処刑された。そして世界中が第二次世界大戦で世界中が殺し合ったのも、わずか77年前だ。

 暴力はだめなものなのはもちろん大前提だが、暴力でしか、変えられないもの、変わらないものも確実にある。少なくとも暴力は歴史を変えるきっかけになってきたことは確かだ。世界中で格差が広がり、ポジショントークで丸め込む大金持の小づるさをはっきり言って頭脳戦では止めることほぼ無理だろう。部落解放運動を描いた住井すゑの「橋のない川」や中国の近代史を描いたパールバックの「大地」、スタインベックの「怒りの葡萄」あたりの歴史闘争の古典を読んでみても、歴史を大きく変えるきっかけは暴力だったこと、その先に現代があることを思い返させてくれる。日本人が、暴力による大きな政権転覆を果たした最後の事件が、言わずもがな、一連の幕末の騒乱と明治維新だ。200年以上続いた江戸幕府への不満を下級武士、平民が著しく溜め込み、そして長州、薩摩がお上に逆らうテロリスト化したことで、明治維新は成し遂げられた。江戸の末期、尊王攘夷を掲げた下級武士たちはその当時は明らかにテロリスト扱いだったし、愉快犯も少なくなかっただろう。だがそれから150年の月日が流れ、幕末の尊王攘夷派をテロリストとは呼ばれない時代となった。何故なら暴力が世の中を変えたからだ。暴力も目的を遂行すれは、それはいつのまにか聖戦となる。安倍氏の祖先がそれを身をもって成したのだが、そして150年後に子孫が権力についたあとにその逆が起こるとは、歴史とはまさに皮肉の積み重ねなのだろう。

 今のところ山上容疑者の素顔は謎につつまれており、多くは推測の域を出ない。ただ一つだけ確かなことは彼は誰も助けてくれなかった統一教会の被害者であり、その恨みを晴らすために彼は暴力での解決(自分の中での納得)を選んだ。山上容疑者は、40代の自分と年齢もほとんど変わらず、そして彼のあまりにも普通すぎ見た目が、多くの人に「自分と彼との違いの紙一重の差」を実感させられ、何も言えなくなっている部分も大きい。気を抜くと、彼の寂しさの後ろにいつかの自分、今の自分が映るのだ。

 悲しい暴力は世の中を変えるきっかけになる。山上容疑者の安倍氏殺害が、今後の統一教会の廃止へともつながるのか、さらには弱者を食い物にする多くの貧困ビジネスへの撲滅にも向かい、金持ちをビビらせ世の中の不公正を変え、日本版のアラブの春に向かうのか、それは全く分からない。(ただしアラブの春は混乱を招いたが結局は成功はしていない)。でも少なく一人の普通の男が命をかけてこれだけは行いたかった悲しい暴力が、日本の何かを変えるきっかけになるかもと、感じ出している。

 

ボロ屋暮らしの独身ぼっちおじさんはお金が貯まっていくと改めて思ったお話。

  全くすることがない土曜日の夜なんで、だらだらとつまらないドラマ鑑賞しながら、ミドフォーおじさんの現状の生活費をまとめてみた。とりあえず5年、10年後に見返すして何をその時考えるのかも想定して、検証してみた。

<収入> 

▼手取り約43万円(ただしボーナスなし)+状況に応じて決算賞与はあり

<支出> 

▼借地代 1万3000円

*都内のはじっこだがノーローンで購入したため、月の支払いは借地代のみ。固定資産税も住居分だけ(年間1万6000円)。

▼光熱費 電気・ガス合計(東京電力で一括) 月平均1万~1万2000円

     水道代 月2000前後

     光ファイバー 5500円(NURO光

     携帯代 1400円(Bモバイル6G、70分無料通話付き)

     合計 約2万1000円

▼サブスク アマゾンプライム 月500円

      NHKオンデマンド 月1000円

      ネットフリックス(パラビ、テラサなども循環) 月1000円

      アマゾンオーディブル 月1500円

      アマゾンアンリミテッド 月1000円

     合計 約4000円

▼食費  1日3000円平均×30日= 合計約9万円

▼外飲み代 5000円×月6回ほど =合計約3万円(コロナで一気に縮小) 

▼日用品 1万円くらい

▼その他・遊び代 平均3万円

▼総合計支出 20万円

 毎月43万円-20万円=23万円×12カ月で、特に節約生活をしているわけではいが、約年間280万円以上貯まる計算になる。40代半ばで年収650万円くらいの完全な中流おじさんの収入なのに、こんだけ生きているだけで貯金が増える計算になるとは、ぼっち力はなかなかに偉大だな笑。

 考えてみたらノーロンでボロ屋暮らしは、思った以上にコスパ優位性が高い。今のボロ屋と同規模の戸建て(70平米ほど)を、都内のはじっこといえ借りるとなると、近隣家賃と比較してみても、家賃として、月10~12万円(年間120~144万円)が消えていくことになる。(オラは閉所恐怖症気味なんで6畳ワンルームとかには基本住みたくない)。4000万円ほどの新築戸建て購入すると、ローン額も同じくらいだろう。5000~6000万円だともう生活が無理な水準だと思う。

 さらにもし結婚していて子供がいるとなると、月の生活費が10万円くらいあがるはずだから、さらに年間生活費が120万円ほどかかる。これに車を買うと、駐車場など含め、月3万円(年間40万円ほど)がさらにかかることになるなる。するとあら不思議……、同じような暮らしをしてても、ぼっちに比べ、年間の支出は280~300万円ほど上乗せされてしまうではないか。そりゃあ年収650万円の野原ひろしの小遣いが月に1万円とかになってしまうわなな、まじで切ない。貯金も奥さんがパートなどしない一馬力では、完全に無理だろう。

 ちなみに1年間でこれだからドラ顔インデックスに頼らなくても、貯金だけで、10年で3000万円、20年で6000万円ほども手持ちの資産に差が出てしまうわけだ。確かに婚活おばさんが言うように年収650万円で都内で家族を無理かもしれない。年収650万円のぼっちおじさん(ボロ屋おじさん)と同クオリティで都内で暮らすためには、税金も考えると650万円の倍以上、1500万円前後の収入が必要となってくる。40代でここまで稼ごうと思ったら、大手商社か外資勤務が最低条件となってしまい国内メーカーでは部長級か役員が最低条件になってしまう。医者、弁護士でもそこまでもらっているのは上位2割もいかない気がする。なかなかに切ない現状だ。あと多分そこまでの高収入の男性は、都内の40代以上を限定しても5%以下だと思うわ(独身は皆無だろう)、なかなかに現実を普通にシュミレーションしたら厳しいわな。そりゃ年々貧乏人の婚姻率が減るのは仕方なしだわな。

 あとその後の生活も、もし45歳から20年間、年間300万円貯金続けたら、単純に6000万円貯まる。これに退職金が2000万円加わると8000万円以上になる。これまでの資産もあるんだから、ダサいインデックス投資なんかやってる程度で、資産1億円は余裕で超えるということになる。ハイリスクな投資はせずに堅実に、というか投資すら必要ないんだろうな独身ぼっちおじさんは;;結論として、ぼっちボロ屋暮らしおじさんは、なかなかにいい生き方ということなのだろうと、勝手に自分を慰めていく今日この頃です笑。

村上春樹好きのベトナム人に思うこと。

 日本語教師のボランティアをオンラインでやっているのだが、この前、30歳前後のベトナム人女性との間で、村上春樹トークになった。日本の漫画、アニメが好きなベトナム人は多いが、それが少し進むと村上春樹好きあたりに移行するらしい。その女性は広瀬アリスっぽさもあるまぁ美人(個人的にはベトナム人広瀬すずやアリスに似ている娘が多い気がするのだが、オラは好みではないだけど)だが、ベトナム人のファッションやいろいろな感覚も、けっこう日本人に似てきたものだと、改めて感じた。

 思い返してみると、初めてベトナムに行ったのは1990年代後半だったが、その時のベトナムと日本はなかなかの断絶感もあった。ベトナムにはその後も数年に1回は定期的に仕事や旅行で行く機会が多かったが、グローバル化日系企業ベトナムへの大量進出もあり、その距離は年々近くなっていた。2013年頃からはベトナムからの技能実習生の大量入国もあり、ベトナムと日本の心理面、物理面の距離はさらに縮まっている。個人的にアジア各国の感性の先進国化(ある種の日本化?)を考える上で、村上春樹の人気度合いが一つの目安になると思っている。2000年代後半に、韓国の20代にネットでからまれ、「海辺のカフカ」の主人公は自分の分身で、その気持ちがやたらと分かるとドヤられたことも、なんとなく思い出した。ちなみにそいつはほんとか嘘か知らないが、親はサムスンの幹部だと言っていた。

 多分村上春樹の作品がベトナムで本格的に売れ出したのは、2010年以降だと思う。それはベトナムの経済成長がさらに加速するタイミングだった。そして今、前の女性によると、村上春樹は今かなりベトナムの若者に人気だとのことだ。ちなみにその女性は、「のノルウェーの森」と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」と、そして「1Q84」が好きだとのことだったが、感想を問うと「不思議なことがおこって、男性がいいかげん」というばっくりとした感想で若干の物足りなさ。なかなかにベトナム人が、村上春樹の魅力を日本語で説明するのは難しいわな。まぁオラも、英語で好きな作品の説明するのは、まぁ無理だし仕方ないか。将来の夢は日本語の原本で、村上春樹の作品を読みたいのが夢だと言っていたが、あのややこしい独りよがり比喩の理解はなかなかハードルが高そうだが、そのうちその感想も聞きたいな笑。

 村上春樹のデビュー作品の「風の歌を聞け」での979年だったと思うが、その頃の日本は学生運動も終わり、戦後日本の大きな物語も枯渇し始め、改革や物質的欲求でなく、自分だけのもやもやした悩みへの精神的満足を満たすための時代の初期でもあった。そのもやもやした感覚への共感が、今のベトナムでも浸透しているということなのだろうか。それがいいことが悪いことは分からないが、なんとなく寂しいことだとも思った、そんなどうでもいい感想でした。