みとのひとりごと

40代独身、人生散歩中。

婚活をマルクス資本論から考える笑。

 最近ストレス発散で、隙間時間にマルクス資本論がらみの本を乱読している。マルクス資本論でスーと納得できる概念の一つが、「価値」と「使用価値」なのだが、その理論は、最近修羅場化している婚活市場にも大いに当てはまる。

 マルクスは、「使用価値」と「価値」を全く別物と定義づけている。「使用価値」とは、文字通り自分が必要で、それを使うことで価値を感じるものだ。例えば椅子は座ることでのみ価値が発生し、机はその上のモノを置くことで使う価値が発生する。逆に言うと椅子は座らないとそこには価値が発生せず、どんなに贅沢なステーキでも、それを食べれないベジタリアンの前では価値が発生しない。そこにある尺度は、使うことによる利便性によって、価値が発生するという、ある意味当たり前のことだ。それは資本主義どここうではなく、生物としての営みの一部といて存在するものだろう。

 対して「価値」の定義は、少し違う。「価値」は使う側というより売る(生産する)側が、その「価値」を設定することができる。例えば1年間毎日1-2時間かけて素人が完成させた絵画や小説などは、ほとんどの人間にとって「価値」はほんどない。だが素人アーティストにとってのそれは大きな「価値」がある。彼、彼女にとっては、単純に300日×2時間かけて制作した作品なら、最低自給級の時給1000円と換算として、60万円以上の価値があることになる笑。「価値」の基準はあくまでも個人軸であり、それは他人を強要しないが、他人を巻き込むこともできる。例えば有名アーティストの作品は、素人作品とは逆に、それを「価値」を認める他人が発生し、そこに「価値」が発生することになる。マルクスはこれをお金という媒介が存在することにより生じた現象だと論じる。確かに物々交換の世の中なら、世の中んは「使用価値」同志の交換がメインであり、個人が思う自己評価過剰で腹もふくれない「価値」はほぼスルーされていただろう。

 すなわち「価値」とは個人評価の世界であり、自己評価と現実評価が大きく管理する「婚活女様」や「婚活勘違い親父」たちは、この「価値」と「使用価値」のジレンマに大きくはまり込んでいまっている気がしてならないのだ。例えば「婚活女様」は、主観的には45歳の自分の「価値」がすごく高くなる。若いころはちやほやされていたし、自称美魔女を維持するために毎月高い化粧品、エステ投資などを行っている。すなわち今の自分を維持しているのは、ものすごい投資の積み重ねであり、そこには大きな「価値」があると彼女は考える。こんな私と結婚するには年収1000万円以上の年下男性がふさわしいということになる。「使用価値」の観点からは当然の判断だ。

 一方で「価値」の観点から見ると、彼女の婚活市場での「価値」はほとんどない。子供が欲しい年下30代婚活男性から見たら、妊娠可能性も低い、年上の化粧の濃い、なんかえらそーなおばはん。30代年下男性の彼女の評価は、だいたいそんな感じで落ち着くだろう。身も蓋もない評価だが、そんな感じだ。すなわち彼にとって彼女は全く「使用価値」がない存在となるのだ。もちろん心のつながりだとかいろいろなイレギュラー要素も存在するので、これが全てでないが、かつてはモテたかもしれない婚活女性様のプライドを支える「価値」は、「使用価値」という多くの尺度からは、まったく意味もないものになってしまうのだ。このように、世の中の勘違いの多くが、「価値」と「使用価値」のギャップから起こる。そしてそれは多くの悲劇と時間損失を生んでいる。そんなことをふと考えてみた。ただ何の責任もなく考えてみただけだ。